それは、湿気がまとわりつくような六月の、ある土曜日の午後のことでした。普段は忙しさにかまけて放置気味だったベランダの隅に、溜まった埃を掃除しようと思い立った私は、軽い気持ちでプランターを動かしました。その瞬間、耳元で低い、しかし力強い羽音が響き、私の心臓は一瞬で跳ね上がりました。驚いて手を離すと、プランターの縁の裏側に、直径五センチメートルほどの、灰色をした不思議な形の塊が付着しているのが見えました。それこそが、私が初めて間近で目にしたアシナガバチの巣でした。それまで蜂の巣といえば、テレビのニュースで見るような巨大なスズメバチのものを想像していた私にとって、ベランダの片隅にこれほど静かに、そして確実な存在感を持って営巣されている事実は衝撃的でした。よく見ると、巣の表面には数匹の蜂が取り付いており、こちらを警戒するように触角を細かく動かしています。私はパニックになりそうになりながらも、まずは静かにその場を離れました。それから数時間は、家の中にいてもどこか落ち着かない気持ちで過ごしました。「一体どこからやってきたのか」「なぜこの場所を選んだのか」という疑問が頭を離れません。調べてみると、アシナガバチはベランダの隅や、洗濯物干し竿の付け根、あるいはエアコン配管のカバーの隙間など、人間の生活動線のすぐ傍にある死角を好んで巣を作る習性があることを知りました。私のベランダの場合、あまり使っていなかった古いプランターの陰が、彼らにとっての安住の地となっていたようです。その後の数日間、私は窓越しに彼らの様子を観察することにしました。女王蜂と思われる一匹が、せっせと巣を拡張し、幼虫に餌を運ぶ姿は、どこか献身的でありながらも、やはり共存は難しいという冷徹な現実を私に突きつけました。特に洗濯物を干す際、不意に蜂を刺激してしまったらと思うと、日常生活を維持するためには駆除の決断を下さざるを得ませんでした。最終的には専門の業者に依頼をしましたが、作業員の方が「この時期はまだ小さいから良かったですよ」と言いながら、ものの数分で巣を撤去してくれたのを見て、安堵すると同時に、自らの観察不足を痛感しました。この体験を経て、私は家の周囲にある「死角」に対していかに無頓着であったかを思い知らされました。以来、私は季節の変わり目には必ずベランダのすべての物品を動かし、不自然な羽音がしないか、奇妙な塊が付着していないかを点検することを習慣にしています。アシナガバチの巣は、私たちが当たり前のように享受しているプライベートな空間に、自然界が音もなく忍び寄ってきた証でもありました。適切な距離感を保つためには、まず相手が「どこ」にいるのかを知る努力が必要だという、厳しくも大切な教訓を、私はあの小さな灰色の巣から学んだのです。